征夷大将軍という官職があります。
源頼朝が鎌倉幕府を開いた時に任命され、その後、約680年間続いた武家政権のトップ達がこの官職を継いできました。
では、そもそもこの「征夷大将軍」というのはどんなものなのでしょうか?
征夷大将軍とは?
征夷大将軍はある時期から「武士の棟梁」に与えられるようになった官職です。
朝廷によって、この官職に任命された人が「日本中の武士のリーダー」となりました。
武家政権が続いた間は、征夷大将軍は「事実上の日本の最高権力者」でした。
大政奉還後、「王政復古の大号令」により征夷大将軍の職は廃止されています。
「征夷大将軍=武士の棟梁」となった経緯
もともと征夷大将軍とは、「東にいる敵(蝦夷)を倒すための大将軍」のことでした。
飛鳥時代や奈良時代、政権の中心である朝廷は、日本全国を支配していたわけではありません。
東国には蝦夷(えみし)と呼ばれる朝廷の支配を拒む人々が住んでいました。
「蝦夷を倒すために派遣される軍事のトップの官職のうちの一つ」に征夷大将軍というものがありました。
必ずしも「蝦夷討伐のトップ」が「征夷大将軍」になるとは限らず、他にも同じような役割を果たすため「鎮東将軍」「持節征夷将軍」「持節征東大使」「征東大将軍」などの官職が設けられていました。
そのため、鎌倉時代以前の征夷大将軍は常設の官職ではなく、むしろ誰も就いていない時期の方が長いくらいです。
この征夷大将軍の地位を押し上げたのが源頼朝です。
近年の研究によると、頼朝は武士たちをまとめ上げるために「大将軍」という肩書を欲していたとされます。
つまり、別に征夷大将軍でなくても「大将軍」のつく官職なら何でも良かったものと思われます。
いくつかの候補の中から、朝廷が選び、最終的に消去法で選ばれたのが征夷大将軍だったようです。
そのような選び方をしただけあって、当時の征夷大将軍は、「特に権力を持たない名誉職」のようなものでした。
しかし、この官職を、頼朝・頼家・実朝と3代続けて「鎌倉殿」が受け継いだことにより、その後の意味合いが変わっていきます。
3代将軍源実朝が暗殺されたことで、源氏将軍は途絶えます。
その後4代目の鎌倉殿となった「藤原頼経」は公卿です。
そこで、源頼朝以降3代続いた征夷大将軍という官職を、4代目鎌倉殿である藤原頼経にも継がせることで、鎌倉殿の権限と征夷大将軍の官職とを結びつけました。
「今度の鎌倉殿は公卿だけど、頼朝様達と同じ征夷大将軍ですよ」と公卿の藤原頼経が武家の棟梁になる正当性を御家人たちにアピールしたわけです。
こうすることによって、「朝廷により征夷大将軍に任命されたものが武士の棟梁となる」という状況ができて、「征夷大将軍が武士のトップであるという認識」が生まれます。
その後もこの風習が長く続くことで、「征夷大将軍=武士の棟梁」という構図が定着しました。
征夷大将軍には源氏しかなれない?
「征夷大将軍には源氏しかなれない」といわれることがあります。
鎌倉幕府の源氏を始め、室町幕府の足利氏、江戸幕府の徳川氏、これらはみんな源氏の子孫とされています。
「豊臣秀吉が天下を統一したのに征夷大将軍になれなかったのは、源氏ではないからだ」という説が広まり、征夷大将軍就任は源氏の特権と言われるようになりました。
しかし、征夷大将軍になれるのは源氏だけというのは違います。
そもそも、「源頼朝」以前の征夷大将軍は源氏ではありませんし、頼朝以後も鎌倉幕府の第4代将軍以降は源氏ではありません。
さらに、平氏(自称)である織田信長も天皇により征夷大将軍に推挙されたことがあり、豊臣秀吉に関しても、征夷大将軍を勧められていたとする資料が存在します。
織田信長や豊臣秀吉の時代には、征夷大将軍は「源氏」というよりむしろ「足利家」が継ぐものという認識がありました。
そのため、足利家と関係ない織田信長・豊臣秀吉は、積極的に征夷大将軍に就こうとしなかったというのが本当のところのようです。
豊臣秀吉は、征夷大将軍よりよっぽど出自に厳しい関白に就いています。
これは豊臣秀吉が公卿の猶子(※養子のようなもの)になることで実現しました。
であれば、やろうと思えば足利家の養子になって征夷大将軍にもなれたはずです。
それをしなかったということは、単に彼にとって征夷大将軍の官職が必要なかったというだけでしょう。
「源氏でなければ征夷大将軍になれない」のではなく、「征夷大将軍となった人達に源氏の子孫が多かった」というのが実際です。