「日本三大仇討ち」という言葉があります。
武士が力を持った中世以降、親や主君の無念を晴らすための敵討(仇討ち)は称賛される傾向にありました。
その中でも特に3つの事件が美化されて仇討ちのお手本のような扱いを受けています。
日本三大仇討ちとは?
日本三大仇討ちとは、「曾我兄弟の仇討ち」「赤穂浪士の討ち入り(忠臣蔵)」「鍵屋の辻の決闘(伊賀越の仇討ち)」の3つの仇討ち事件のことを指します。
これは江戸時代中期頃から言われていたとされます。
江戸時代の日本では仇討ちが法的に認められていました。(※制限・ルール等はあります。)
このため、「もしかしたら自分たちが行うことになるかもしれない仇討ちのお手本」が広まったとみられます。
日本では仇討ちの文化はよく見られます。
例えば「さるかに合戦」などのよく知られる民話も仇討ちのをテーマにしたものです。
一説では、初夢で見ると縁起が良いとされる「一富士、二鷹、三茄子」は「日本三大仇討ち」のことだとされます。
曾我兄弟の仇討ちは「富士」で行われ、赤穂・浅野家の家紋は「鷹」の羽、鍵屋の辻は伊賀国(「茄子」の名産地)にあるからだとされています。
そんな3つの代表的な仇討ちの詳細を、簡単にご紹介します。
曾我兄弟の仇討ち
曾我兄弟の仇討ちは、鎌倉時代の初期(1193年)に起きた事件です。
曾我祐成(そがすけなり)・曾我時致(そがときむね)の兄弟が父親・河津祐泰の仇である工藤祐経(くどうすけつね)を討ちました。
「十番切」という言葉が生まれるきっかけともなりました。
(※十番切とは、一人で10人を斬り倒すこと)
近年の認知度はあまり高くない事件ですが、戦前は小学校の教科書に要約が記載されるなどある程度多くの人に知られていた事件です。
曾我兄弟の仇討ち概要
「曾我兄弟の仇討ち」の詳しい内容は以下の記事に記載していますのでご覧ください。
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赤穂浪士の討ち入り
赤穂浪士の討ち入りは、江戸時代中期頃に起きました。
「忠臣蔵」としてご存知の方も多いかもしれません。
一昔前までは、12月になると毎年のように忠臣蔵関連のテレビ番組が放送されていました。
赤穂浪士の討ち入り概要
事件は赤穂藩の藩主・浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が吉良上野介(きらこうずけのすけ)に切りかかったことが発端となります。
(切りかかった理由は、浅野内匠頭が吉良上野介から、いじめのような事を受けていたからだとされていますが、詳細は不明です。)
上野介はケガを負いますが、命に別状はありませんでした。
ですが、切りかかった場所とタイミングが大問題でした。
場所は「江戸城」・タイミングは「朝廷からの使者が来ている最中」だったからです。
当時の将軍・徳川綱吉は大激怒して、その日のうちに浅野内匠頭を切腹させます。
さらに浅野家は「お家取り潰し」となります。
ですが、喧嘩両成敗が当たり前だった時代にも関わらず、吉良上野介には何のお咎めもなし。
これに不満を持った大石内蔵助(おおいしくらのすけ)を始めとする浅野の家臣団は、主君の切腹から約2年後、吉良上野介邸に討ち入り。
上野介を討ち取り、浅野内匠頭の仇をとりました。
なお、この仇討ちに参加した47人のうち、足軽の寺坂吉右衛門を除く46人は徳川綱吉の命により全員切腹しています。
鍵屋の辻の決闘
「鍵屋の辻の決闘」は「伊賀越の仇討ち」という別名でも知られています。
この事件は、江戸時代初期(1634年)に起こりました。
鍵屋の辻の決闘(伊賀越の仇討ち)概要
当時の岡山藩主・池田忠雄の寵愛する小姓・渡辺源太夫が同じく岡山藩士の河合又五郎に殺されたことが事件の始まりです。
又五郎は脱藩、江戸に逃れ安藤正珍(あんどうまさよし)という旗本に匿われます。
池田忠雄は又五郎の引き渡しを求めますが、安藤正珍はこれを拒否。
この時点で大名(お殿様)VS旗本(徳川家の直属の侍)という構図が出来上がります。
幕府は「池田家は鳥取へ国替え」、「又五郎は江戸追放で、それを匿った安藤正珍らの旗本は謹慎」という喧嘩両成敗で事件の終息を試みます。
なお、これより前に忠雄は急死し、子の池田光仲があとを継いでいます。
忠雄は「河合又五郎を許すな」というような遺言を残していました。
こうした事情の中、殺された渡辺源太夫の兄である「渡辺数馬」は弟の仇討ちを決意します。
しかし、渡辺数馬は剣術が得意な方ではありません。
そこで、義理の兄である「荒木又右衛門」に助太刀を頼みました。
二人は河合又五郎を探し回り、ついに居場所を突き止めます。
勘づいた又五郎は江戸へ逃れようと試みますが、数馬と又右衛門はそれを見抜き「鍵屋の辻」と呼ばれる場所で待ち伏せします。
この時2人の他に荒木又右衛門の弟子である岩本孫右衛門、川合武右衛門が加わったとされています。
この内、川合武右衛門はこの戦いで命を落としています。
又五郎には多くの護衛がついていましたが、荒木又右衛門がこれを撃退。
剣術に不慣れな渡辺数馬でしたが、弟の仇討ちの筋として又五郎は数馬が攻撃します。
ようやく又五郎に傷を負わせたところに、荒木又右衛門がとどめを刺し、仇討ちが完了したと伝わります。
事件後、仇討ちを果たした3人は鳥取藩で引き取られることになります。
しかし、荒木又右衛門がそのわずか17日後に謎の急死を遂げたと鳥取藩が公表。
毒殺されたとする説や、生存を隠しているとする説など諸説が囁かれています。
なお、この決闘が後世に伝わり、「荒木又右衛門の36人斬り」という伝説が生まれました。
しかし、実際に荒木又右衛門が斬ったのは2人とされています。