NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の第17回「助命と宿命」の放送で、八重(演:新垣結衣さん)の従兄である工藤祐経(演:我が家・坪倉さん)という人物が登場しました。
主人公の北条義時に士官の世話を依頼に来たシーンで、二人の男の子から「人殺し」と言われ、石を投げつけられます。
詳しい説明がなかったため、何のことだかわからない人も多かったはずですが、あれは「日本三大仇討ち」の一つである「曽我兄弟の仇討ち」の伏線だとみられます。
「曽我兄弟の仇討ち」とはどんな事件だったのか、できるだけわかりやすくご紹介します。
曽我兄弟の仇討ちとはどんな事件?
「曽我兄弟の仇討ち」とは、曾我祐成(そがすけなり)と曾我時致(そがときむね)の兄弟が、父親の河津祐泰(かわづすけやす)の仇である工藤祐経(くどうすけつね)を討ち取った事件です。
「赤穂浪士の仇討ち(忠臣蔵)」・「伊賀越の仇討ち(鍵屋の辻の決闘)」と並び日本三大仇討ちのひとつに数えられます。
(※ほか2つの事件はこちらから→ 関連記事:日本三大仇討ちとは?)
曾我兄弟の父親である河津祐泰は、狩り場から帰る途中、工藤祐経の郎党(部下)に襲撃され命を落とします。
この時、河津祐泰の息子の「一万(祐成)」は5歳、「箱王(時致)」は3歳でした。
その後、河津祐泰の妻は二人を連れて曾我祐信(そがすけのぶ)という武士と再婚し、二人の兄弟はそれぞれ「曾我祐成」「曾我時致」となります。
二人は成長し、祐成が22歳・時致が20歳の時、駿河国富士野(現:静岡県富士宮市)で源頼朝が催した巻狩の最中に工藤祐経を討ちました。
その後、兄の祐成は討ち死に、弟の時致は捕縛され尋問を行われた後に処刑されました。
源頼朝は弟の時致を尋問した際、その言葉を聞いて感動し涙を流したと伝わります。
梶原景時の忠告などがあり、厳しい処置は変更しなかったものの、兄弟の死後は手厚く葬るように命じたようです。
曽我兄弟と工藤祐経との関係は?
曾我兄弟の父親は「河津祐泰」という人物で、伊東祐親の長男、八重のお兄さんです。
(「鎌倉殿の13人」でも第2回まで登場し、山口祥行さんが演じています。)
ですので、曾我兄弟というのは八重の甥っ子・北条義時の従兄弟にあたります。
工藤祐経は伊東祐親の娘(河津祐泰と八重の姉妹)と結婚をしていますので、工藤祐経にとっても曾我兄弟は甥っ子です。
つまりこの事件は、「まず工藤祐経が義理の兄弟である河津祐泰を討ち、その工藤祐経を甥である曾我祐成・曾我時致が討った」という、ごく近い間柄のなかで起きたということです。
大河ドラマで子どもたちが工藤祐経に石をぶつけるために北条義時の館に来ることが出来たのは、彼ら同士の関係が非常に近いものだったからです。
なお、この場面で八重(新垣結衣さん)が「よくそのようなことが言えますね。ご自分が何をしたのか、分かっておられるはず。」と工藤祐経に対して怒りをあらわにしています。
ドラマでは「忘れましょう。」と続き、言及されませんでしたが、八重はお兄さんを工藤祐経に殺されたため、あのように怒っていたのです。
「曽我兄弟の仇討ち」事件の詳細
事件が起きたのは1193年5月のこととされています。
平家を滅ぼし、奥州を平定し、鎌倉幕府を開いた後、源頼朝が征夷大将軍に任命された翌年のことです。
富士の巻狩り
ある日、源頼朝が駿河国富士野で巻狩り(遊興・軍事訓練の一環として行われる狩り)を行うことを部下である梶原景時に伝えます。
景時はこれを多くの人に通達します。
この話は曾我兄弟の弟、時致の耳にも入りました。
兄弟はこれを仇討ちのチャンスと捉えます。
狩りは3日連続で行われ、兄弟は工藤祐経の隙をうかがっていましたが、なかなか機会がありません。
狩りが終わり、頼朝以下武将たちが次々に屋形に入ります。
曾我兄弟も屋形に入り、母にあてて手紙を書きます。
兄弟ともに命を捨てる覚悟であること、母のこれからを祈っていることなどが書き記されました。
どうやらこのとき、屋形で工藤祐経を襲うことを決めたようです。
仇討ち
5月28日の夜中、兄弟はついに仇討ちを決行します。
工藤祐経はこのとき、屋形で寝ていました。
祐経の姿を確認した兄の祐成は、祐経の肩に刀を刺したうえで声をかけ、祐経を起こします。
祐経が起き上がるとすぐさま兄・祐成が斬りつけ、立て続けに弟・時致も斬りかかります。
兄弟は工藤祐経を討ち果たしました。
このとき、たまたま工藤祐経の酒の相手をしていたとされる「王藤内(大森隆盛)」という神職(神主)も一緒に討たれています。
(王藤内は世話になった工藤祐経に礼を言うためにたまたま富士に立ち寄っていました。)
この騒ぎを聞いてやってきた10人の武士と、曾我兄弟の斬りあいが始まります。(十番切)
兄弟はこの10人を倒します。
しかし、さらに数人の武士が駆けつけ、その中の一人である「新田四郎(仁田忠常)」と兄・祐成の壮絶な斬り合いが始まります。
多くの敵と戦い疲労困憊していた祐成は、ついに新田四郎から致命傷を受け、亡くなります。
(※なお、この「新田四郎」は大河ドラマでティモンディ高岸さんが演じている人物です。)
祐成は亡くなる直前、「将軍(頼朝)のところへ行け」というようなことを弟・時致に言い残します。
時致はそれに従い、頼朝の目前まで到達したと言われます。
頼朝は時致を迎え撃つために刀を手に取りましたが、時致はその間に「五郎丸」という従者に取り押さえられました。
これにより、仇討の騒動は収まります。
弟・時致の尋問
翌日、頼朝は弟・時致に尋問を行います。
この時、若干二十歳の時致の堂々とした態度を見た頼朝は「あっぱれ、男子の手本だ」とまで言い、感動して涙を流したと伝わります。
しかし、当時頼朝が重用していた工藤祐経を討ったこと、頼朝にまで歯向かう姿勢を見せたこともあり、時致が許されることはありませんでした。
頼朝は尋問を受けて一度は時致を免罪にしようとしましたが、配下である梶原景時の忠告を受けて、取りやめたとされています。
尋問当日、時致は獄門に処されています。
「曾我兄弟の仇討ち」のその後
仇討ちを果たしたものの、兄弟ともに亡くなってしまいます。
二人の首は頼朝の命令により、曾我の里へ運ばれ、そこで火葬されたと伝わります。
さらに頼朝は、兄弟の養父である曾我祐信に、今後の年貢を免除し、「それを兄弟の供養に使うように」と命じました。
頼朝が曾我兄弟の仇討ちにいかに心を動かされたのかが窺えます。
時致への尋問と、兄弟が討ち入り寸前に母に書いた手紙を頼朝が見たことが大きかったようです。
なお、この事件は当時、鎌倉にいる北条政子にも伝えられました。
その際、誤報として伝えられ、政子は「頼朝が討たれた」と勘違いしていたという説があります。
そのことが今度は頼朝の弟である「源範頼(のりより)」を苦しめることにつながっていきます。