大河ドラマ「光る君へ」で長徳の変(ちょうとくのへん)が描かれます。
これは、どのような事件だったのでしょうか?
長徳の変(ちょうとくのへん)とは?
長徳の変とは、藤原道隆(藤原道長の兄)の一族が政権の中枢から排斥されるきっかけになった事件です。
藤原道隆の死後、道隆の嫡子・藤原伊周と藤原道長との対立が深まります。
そうした中、伊周が通っていた「三の君」という女性の家に、他の男が通っていることが発覚します。
伊周は弟の藤原隆家に相談します。
その結果、その男を襲撃することになりました。
伊周・隆家らは、従者の武士を連れて襲撃を行います。
しかし、彼らが襲ったその相手は花山法皇でした。
花山法皇は「三の君」と同じ家に住んでいた「四の君(藤原儼子・ふじわらのたけこ)」のところに通っていただけなのに、伊周の勘違いで襲撃されてしまいます。
幸いにも花山法皇自身は怪我を負いませんでしたが、袖を矢で射抜かれ、一説には法皇一行の側に死人が出たとも伝わります。
藤原伊周・藤原隆家への処罰
臣下が法皇に矢を射掛けるなど言語道断です。
罪人となった伊周らには、さらに密告などにより余罪が加わりました。
- 道長を推していた詮子を呪詛した
- 臣下が行ってはならない「大元師法(だいげんのほう)」を勝手に行った
これらの罪状により、伊周は大宰権帥、隆家は出雲権守に左遷されることが決まりました。
これは実質的な配流でした。
その後、伊周らは病気を理由に出立を拒んだり、逃亡したり隠れたりと、京は大混乱に陥りますが、結局は捕らえられて処罰を受けます。
中宮定子の出家
藤原伊周・藤原隆家が失脚すると、ショックからか責任をとったのか、一条天皇の后である定子が出家してしまいます。
(※伊周・隆家と中宮定子は異母兄弟です。)
しかし、一条天皇は出家した定子を内裏のすぐそばに住まわせていました。
そうしたなかで、2人の間に皇子が生まれます。
すると、これをみて道隆の家系に再び権力が戻ってしまうことにあせりを感じたのか、藤原道長は自身の娘である彰子を中宮としました。
「定子は出家したのだから、正妻として神事を行うことはできない」
という少々強引な口実により、藤原道長は自身の娘を天皇のもう一人の正妻にしたのです。
そして、彰子が一条天皇に愛されるよう、教養あふれる才女を彰子につけました。
この、彰子の教育係としてつけられた「教養あふれる才女」のうちの1人が紫式部というわけです。
まとめ
- 長徳の変とは、藤原伊周・藤原隆家による花山法皇の襲撃事件
- 花山法皇は勘違いで襲われた
- 藤原伊周・隆家らの「中関白家(道隆の家系)」はこの事件をきっかけに没落
- 長徳の変をきっかけに中宮定子も出家
- 中宮定子が出家したことにより、藤原道長が自身の娘・彰子を中宮に
- 道長が、一条天皇に気に入られるようにと、彰子の教育係にしたうちの1人が紫式部
以上、長徳の変の簡単なご紹介でした。
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