大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の序盤、
大泉洋さん演じる源頼朝は、周りの武士たちに「すけどの」と呼ばれています。
なぜ「みなもとのよりとも」なのに「すけどの」と呼ばれているのでしょう?
大泉洋の源頼朝が「すけどの」と呼ばれるのはなんで?
「すけどの」は漢字にすると「佐殿」となります。
これは、「右兵衛権佐(うひょうえのごんのすけ)」の最後の「佐」を取ったものです。
「右兵衛権佐」は源頼朝が就いていたといわれる官位のことです。
最後の「佐」は階級を示しています。
「次官」「中将」というようなクラスの階級です。
ただし、ドラマの第一回の時点では頼朝は流人でしたので、このころには官位を解かれています。
解かれていますが、周りの坂東武者たちは敬意を込めてもともとの官位で呼んでいたのでしょう。
武衛(ぶえい)と呼ばれることも
佐藤浩市さん演じる上総広常は、頼朝のことを「武衛」と呼ぶことがあります。
ことの発端は第8話を見ていただきたいのですが、このときはコントのような出来事が起こりました。
上総はそのコントの後も、意味を知ってか知らずか頼朝のことを「武衛」と呼んでいます。
この「武衛」というのは、「将軍」のことで「佐殿」よりも尊称となります。
実は鎌倉幕府の正式な歴史書とされる「吾妻鏡」では、頼朝が「鎌倉殿」と呼ばれるようになるまでは、「佐殿」よりも「武衛」と記されるほうが多いです。
鎌倉殿(かまくらどの)の呼び名はなんで?
源頼朝の父である源義朝が東国で拠点にしたのが鎌倉であり、頼朝が挙兵をするにあたって同じ鎌倉を拠点にしました。
このときから頼朝は鎌倉殿と呼ばれ、以降、源氏の棟梁の事を鎌倉殿と呼ぶようになります。
なお、「幕府」という言葉は江戸時代に出来たもので、鎌倉時代の武士は鎌倉幕府のことを「鎌倉殿」と呼んでいました。
ちなみに、少しややこしいのですが、「室町幕府は鎌倉幕府の継承者」として認識されていましたので、足利将軍も3代義満くらいまでは「鎌倉殿」と呼ばれています。